悟りといえば、個人的にはインドである。
いや、別に『荘子』でもよいのだが、やはり釈迦(ブッダ)のイメージが強いのだろう、やっぱりインドだ。
まぁ荘子は荘子で、「君子とはかくあるべき」なんいていう、融通の利かない孔子の『論語』よりも、個人的によほど面白い書なのだが。
さて、悟りというと、インドの他にどうしても「仏教」と結び付けて考えてしまう。
しかし、悟りの境地と仏教その他宗教全般とは、切り離して考える方がわかりやすい。
釈迦と仏教を切り離して考えるのは難しいが、しかし彼は「仏教」を教えたのではなく、この世の苦しみから逃れる「生き方」を説いたのだ。
「いかに生きるか」、つまりそれは、哲学的な問いである
香港飯店。
それゆえ、成功する為にはどういった生き方をすればよいのかを探ることを、一般的に「成功哲学」と呼ぶように、悟りの境地を達成するためにはどのようにしたらよいのかを「悟りの哲学」と呼んだ方が、宗教色が薄まって誤解が少ない
益生菌好處。
そしてかつてインドでは、そういうことを哲学していたのだ。
個人的に、熱帯地方などの暑いところには哲学は存在しないと思っていた。
これまた個人的な感想なのだが、赤道に近い南方の国々に行くと、太陽サンサンで、実に開放的な気分になるのだ
紐崔萊。
人間、気温が高く開放的なところでは、存在がどうとか、事象がどうとか、そんな小難しいことはどうでもよくなってしまい、あまり考えなくなるのかもしれない。
そういえば南国に哲学って似合わないな~、そもそも南国出身の哲学者なんていたかな?なんて考えていたのだが、ところがどっこい、いかにも暑そうな国のインドにも、「インド哲学」がちゃんとあるのだった。
もっとも、インド北部は日本の九州と同じぐらいの緯度でもあるし、インド北部のニューデリーあたりは夏は40℃、しかし11月~3月の乾期(=冬)は、朝晩は0℃近くまで下がる事もあるそうだが。
そう考えると、哲学的な問いはやはり、それそれの民族にそれぞれの神や宗教があるように、場所を問わず世界各地に存在するのだろう。
ましてインドでは、太古より悟りや解脱、輪廻転生などの思想が発達していて、そこで哲学的思考が無いというのも、よく考えてみるとおかしい事なのだ。
それはともかく、そのインド哲学の中で、インド最初の哲学者と言われるウッダーラカ・アールニは、こう語っている。